短編小説(赤腹の泥鰌)


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◆ずる休みと白鷺


 章雄の家を出て北へ5,6分歩くと、もうそこは田園地帯であった、冬の日、ランドセ
ルを背負って学校に行くふりをする、ふりをするということはずる休みである、休む日
は決まっていた、給食費を学校に持っていく日に休む。
 とにかく北へ北へと歩く、どこからか聞こえてくる正午のチァイムを目安にして、自宅
に戻る、姉と、弟も同じく給食費を持っていけなかったが学校に行っていた。章雄は行
けなかった。

 章雄は田んぼ道を好んで歩いた。当時は白鷺が沢山いた。白鷺と章雄との距離は一
定していた。
白鷺に向かって歩いていっても、ある一定の距離までは白鷺は逃げない。近づいて行く
と白鷺は逃げる、逃げるといっても見えるとこに逃げる、又近づいていく、逃げる、その
繰り返しであった。

 章雄の学校の成績はすこぶる悪かった、当時の成績の評価は5段階であった、小学
校時代、4、5は一科目もなかった。それどころか、3でさえ体育以外には記憶がない。
 特に嫌いな科目は国語であった、何故ならば、席順に音読していくのである。章雄は
極度のドモリだった、自分の番が近づくと心臓が口から飛び出すように緊張する。
 自分の番で読むために席を立つが言葉が出ない、あー、あー、あーというだけである、
先生は「章雄君いいよ」と言うが、最初から読まさせなければいいのにと思ったが、先生
からすれば、読まさせるのも、席を飛ばすのもどっちも苦労したのだろう。私の子供の頃
のあだ名はアーボーである。

 今日は給食費の支払日、いつものとおりランドセルを背負って章雄は家を出たが、学
校には足が向かなかった。雨が降っていた。
 章雄は行くあてもなく、ひたすら北へと歩いた、お腹がすいてきた。すると大きな農家が
あった。
その門の脇に牛乳箱があった。その木で出来た箱のふたを開けると二本の牛乳壜が
入っていた。一本盗んだ。

 章雄はキョロキョロとまわりを見渡し、傘の中に入れた。急に心臓がドキドキしてきた
 雨は降っていたが、傘をたたんで牛乳壜を隠した。体はずぶ濡れである。盗んだこと
が恐くて恐くて傘をさせなかった。人の目が恐くカバンに隠す余裕もなかった。
 一時間は歩いただろうか、自分よりも背の高い草むらで章雄は泣きじゃくりながら牛
乳を飲んだ。そのときの恐怖感と悲しさ、やるせなさから章雄はその後、盗みをしたこ
とがない。



<全体>

『赤腹の泥鰌』

  昭和25年の夏、章雄は葛飾区の下千葉町で生まれた。章雄の記憶に残っている
のは昭和35年くらいからだと思う。

 七五三の写真があった。そこには、私が5歳、弟が3歳、姉が7歳、三人が写って
いる。厚紙のケースに入っていた。

 表紙には写真館の名前が入っていた。私は写された記憶が無い.私はダブルの背
広と革靴を履いていた。親がその皮靴を捨てずにいたのだろう。干からびて履けなく
なった皮靴の存在をはっきり覚えている。

 南綾瀬小学校に章雄は入学した。その頃には章雄の家は完全に貧乏だった。銅鉄
商の問屋だった。
朝鮮動乱のため鉄が高騰し儲けたらしい、それが七五三のダブルの背広と革靴だっ
たのだろう。わずか2.3年で衰退した計算になる。
  そのころ流行った遊びは、メンコ、ビーダマ、ベーゴマ、缶けりだった。近所に同じく
らいの年齢の子供が沢山いた 集団で遊んだ。缶けりの遊びでも20人、30人で遊ん
だ。

 

◆セスナ機

 

 ブーン ブーンと空から音がすると、近所の子供が、一斉に外にでる。
セスナ機が空からビラを落とす、空中に舞うビラを追ってあちこちと駆け回る、それが、子供たちは、おもしろくてしょうがなかった。章雄も大好きだった。
平成の今の時期そんなことをすれば、苦情で役所の電話はパンクするだろう。
そのビラのほとんどは、商店の宣伝ビラと記憶している。その当時、子供たちで、まともなこずかいを持っている子は近所にはいない。ビラに何が書いてあろうと関係ない。空中に舞うビラを追うのがおもしろいのである。章雄の家から北に10分も歩くと、田畑が点在していた、そこから更に北へ10分も歩くと田園地帯であった。高い建物はなく電線の鉄塔だけが、目立っていた。シラサギもよく田圃にたくさんいた。
 今も章雄の家から20分ほど歩くと西亀有という地に都立の農産高校がある。
 章雄は草花を育てるのが好きなのと、家が貧しいのと、学力の関係で農産高校を受験した、しかし、合格することは出来なかった。
 私立の足立区北千住の駅の近くの足立学園に入学した。
 農産高校に合格していれば、今とは違う職業についていただろう。
 章雄も今年、7月で還暦を迎えたが、自営業のため、退職はない、金もなく、もし、あったとしても、通帳も、印鑑も与えられてはいない。まして、中身も知らない。
 小さな小銭入れの中身だけが、章雄の自由にできるお金だ。
 そんなところから、章雄はお金のことは、あきらめ、このような文章を書いているのだろう。
 セスナ機を追って遊んでいるときと、今、文章を書いている時と楽しさは変わらない。
 

◆ひいばあちゃんの入れ歯 
 
 ひいばあちゃんの家は隣の小さな平屋であった。
 章雄が小学校から帰ってくると、便所の外の吸い出し
口に家族がたくさんいた。

 ひいばあちゃんが便所に入れ歯を落としたのである。
 それを探すためばひいあちゃんの子供、章雄からは
爺ちゃんが、柄杓で糞を掻い出していた。

 あたりは糞の匂いで大変だった。爺ちゃんは50代
で、ひいばあちゃんは70代だった。

 ひいばあちゃんは、パチンコが好きで、煙草を取って
くる。それを市価の倍の値段で爺ちゃんや章雄の両親に
売り付け、それをパチンコの費用にしていた。 
 ひいばあいゃんは昭和44年に93歳で亡くなった。
章雄はひいばあちゃんが好きだった。
 章雄の家が昭和41年に新築したとき、ひいばあちゃ
んの部屋も3帖間であるが作った。

 食事も一緒にした。ひいばあちゃんは私たちひ孫が遊
びから帰ってくるのが遅くなると、外まで探しにきた。
 子供達はばらばらに帰ってくる。

 ひいばあちゃんは、全員がかえってくるのを確認する
と、自分の一日の仕事が終わったかのように笑顔になった。
 私たちは、ひいばあちゃんの愛情で育った。

 その時、入れ歯が見つかったかどうかは、章雄は忘れた。
 
◆じゃがいも


 章雄の家の一角(20M四方)だけでも同級生が三人いた。

 戦後生まれから昭和27年生まれまでに広げると大変な数になる。

 章雄の家の裏にもんじゃ屋があった。そこに、同級生の女の子がいた。

 もんじゃ屋は、以前は、パーマ屋だった。

 パーマ屋だと解るのは、看板にパーマと書いてあったからだ。

 看板の薄くなった字から考えると、廃業してから10年や20年は経過している。

 たぶん、同級生のおばあさんにあたる方が経営していたのだと思う。

 章雄は、よく、そのもんじゃ屋に弟といった。鏡と棚はそのままであった。

 床は板間だった。

 おわんに一杯10円だったと思う。10円のもんじゃは、具が入っていなかった。

 章雄は、もんじゃそのものより、おせんべいが好きだった。

 もんじゃを薄くひいて、せんべいにして、パリパリ食べるのである。

 近所の子供の中には、裕福な家の子もいた。

 裕福な子は、アンコ玉を注文していた。

 二つで対になっていた。

 章雄たちがせんべいを作っている、同じ鉄板に、もんじゃのおわんに、アンコ玉を入れ

 かきまぜて焼くのである。

 しばらくすると、甘い香りが漂ってくる。

 同じ鉄板の上で焼いていても、所有権は別である。

 章雄たちはアンコ玉をたのめる子はうらやましかった。

 もんじゃ屋さんには三姉妹がいた。

 次女が同級生である。

 長女は近所に住んでいるのだろう、たまに会う。

 もんじゃ屋さんの古い建物は10年くらい前に立て替えられて

 お父さん一人で住んでいる。

 お母さんは、亡くなって、久しい。

 同級生とは、めったに会わなかった、それが最近二日続けて会ったのである。

 一人で暮らす父に会いに来ているのだろう。

 足立区に住んでいるといっていた。

 一日目は、軽く会釈程度であったが、二日目は、堀切に来たときは、お寄りくださいと

 名刺を渡した。


◆夏まつりとカメラ


 近所の神社で夏祭りになると、境内、境外に、たくさんの出店が開かれた。

こんなに人が住んでいるのかと、思うぐらい集まってくる。

章雄はカメラが欲しかった。

一番欲しかったカメラは富士フイルムが売り出していた、フジペットEEだっ

た。

確か1950円だったと思う。

カメラ屋さんのガラスケースに展示されていた。

そのカメラを何回も見に行った。

当時、一番安いカメラでも五百円はした。

章雄がもらえるお小遣いは五円か十円だった。

お祭りになると、その五百円のカメラが景品に出るのである。

方法はいたって簡単で。三本の棒の先に一本当たりがある。

三分の一の確率である。

そのカメラが欲しくて章雄は何回もくじを引いた。

当たらなかった。

家に帰り、章雄は「お母さん、五円ちょうだい」

「今、10円上げたばかりではないの」

と、怒鳴られた。

章雄はお金はあきらめて、また、くじの場所に戻った。

誰かが当たるのを見届けたかった。

章雄と同じで、何人もの子供が列をなして、くじを引いていた。

誰も当たらなかった。

神社に鉄のはしご、その一番上に半鐘がかかっていた。

夏祭りのときに、そこで毎年、くじが来た。

章雄は、その後も、そこで当たった人は見たことがない。

夏の日の、ほろ苦い思い出である。

今、その、半鐘があった場所に、電話ボックスが立っている。

夜になると、そこだけが明るい。


◆近所のパン屋さん


 章雄には兄弟が五人いた。朝食にはコッペパンを食べることが多かった。
じゃんけんで負けた者が買いに行くのである。
パンを買って帰ると、必ず聞かれることがある。

今日は「おじさんだった」「おばさんだった」と。
おじさんとおばさんでは、コッペパンに塗るバターとかジャムの量が違うのである。
おばさんの方が塗る量が多かった。

「今日はどちらだった」、「おばさんだったよ」というと、皆、笑顔になった。 

 パン屋の右隣は下駄屋、左隣りは魚屋、薬屋、その前は八百屋と店が連なっていた。まだまだ、店がたくさんあった。
  その八百屋の左隣りが゛岩壁の母゛でのちに有名になった二葉百合子さんが修業時代住んでいた長屋、近所の高齢の方に聞くと、厳しく叱られながら、浪曲の練習をしていたのを見たことがあると言っていた。

 ゛王将゛の村田英雄も近所のアパートに住んでいた。今、章雄が住んでいる裏の方に、そのアパートはあった。私の両親の知人であった、村田英雄氏についてはまたの機会に書きたい。

 二葉百合子は最近NHKテレビの歌謡番組に出演し岩壁の母を歌っていた。
いつまだも健康で歌い続けてほしい。

 コッペパンの話からずれてしまったが、もう少しパン屋の話をする。パンにジャムなどを塗って、待っている時間に、店の中を見回していた。
 いつも、目に入り、ほしかったのが、正式の名前は知らないが、ぶっかけチョコである。
 透明なガラスの瓶に入っていた、確か、グラムで売っていたと思う。見ているだけで買ったことはなかった。
 当時、章雄にとって、パン屋さんは高級店であった。  

 

◆芝居小屋
  

 章雄はしばしば、母に芝居小屋に連れていってもらった。
 現在その跡地は、駐車場になっている。
 その芝居小屋と章雄の仕事とは全く無関係ということではない。

 そこは堀切菖蒲園駅の近くにあった。
 これから書く、芝居小屋の記憶は、章雄にとっては、最も古い部類に入る。

 芝居小屋の入り口には、カラフルな旗が、何本も立っていた。
 中に入ると土間であった
 座敷といっても、みかん箱の上に、板を敷いただけのような
 簡単なものだったと思う。

 汲み取り便所のため、小屋の中は、常に小便くさい臭いがした。
 そんなことは当時、どこでも当たり前で、全然気にならなかった。

 贔屓の役者が舞台に出ると、みな大きな声で、声援を送った。
 その中でも、母の声が、一番、大きかったと思う。

 そして、演技が終わると、贔屓の役者の名前を呼びながら〔叫びながら〕
 舞台に、おひねりを投げるのである。
 ちり紙に包み投げていた。

 舞台の内容は、ほとんど覚えていないが、お金の入ったちり紙を
 役者が拾っていたのは、鮮明におぼえている。

 大人は、なんでもったいないことをするのだろうと思った。
 五円あれば、飴玉を二個買える。
 五円あれば、めんこを買える。
 章雄は役者がうらやましかった。

 それから、十年以上経って、その芝居小屋の前で、章雄の両親が
 不動産屋を開業するとは、当時は夢にも思わなかった。


 芝居小屋はあけぼの座といった。
 昭和30年頃のことである。

 84歳になる母にこの文を読んで聞かせた。母が声援を送っていた役者は
 「ノブチャン」だそうだ。
 母はこの文を読み終わると、元気な声で゛ノブチャーン゛と叫んだ

 

◆仕切屋

 

 章雄の家の職業は仕切屋だった。昭和30年、31年、章雄の五、六歳のときのことである。
 仕切屋とは、集めてきた廃品を仕分けて売り払う業者のことである。

 松原さん、中浦さん、木村さん田村さん、村岡さん、いろんな人生を抱えた人が、リヤカーに乗せて、いろんなものを持ってくる。

 その、いろんなものを、私の母、俊枝がそろばんを持ち、または秤に載せ、値を決めていくのである。
 その、母も、今、84歳になる。体のほうは健在である。年齢とともに、さまざまな障害もある。長生きしてくれていることが嬉しい。

 仕切屋の章雄の家は、いろんな場所があった。鉄屑を収める場所、新聞・雑誌を収める場所、古着、ぼろきれを収める場所。
 そんな訳で、章雄は漫画本には困らなかった。

 昭和30年というと、戦後10年であるが、少しだけ、戦争の余燼が残っていた。戦争のときの、ヘルメットが鉄屑の中に混じっていたり、今思うと驚くのは、たまに、サーベルも有ったりした。
 子供心に、鞘におさまった剣はリアルであった。

 1950年から始まった朝鮮戦争の影響もあり、鉄屑の需要があり、章雄の家の仕事も大きく利益を上げていたらしい。

 章雄の家は、テレビ、電話、冷蔵庫など近所では真っ先に購入した。しかし、よいことは長く続かない。章雄の記憶のなかには、裕福のときがあったということはほとんど覚えていない。

 覚えているのは、父の仕切屋時代ではなく、母の父親、爺ちゃんが、父が失敗したあとに、引き継いだ、仕切屋というよりは屑やの時代にことである。

 爺ちゃんは、新聞、雑誌を紐で締めるのが上手であった。堀切の小谷野にあった問屋にリヤカーに乗せ売りに行くのである。   

 驚くことに、平成20年の現在もその問屋は営業している。
  定年をむかえ会社を退職した爺ちゃんのリヤカーを手で押すのである。雨の後のぬかるみの道は章雄の後押しが特に必要であった。
  冬は震えながら、夏は汗をかきながらリヤカーを押した、道々、同級生の女の子と会うのがいやだった。夏の暑い日、問屋に新聞紙などを収め、爺ちゃんは金を受け取る、そこに、薬缶に氷が入っている水を飲ませてくれた。最高のご馳走であった。 
 帰ってくると、爺ちゃんは、私の小さな手に五円玉を握らせてくれた。その五円を持ち、近所の駄菓子屋に菓子を買いに行った。
  当時、五円でいろんなものが買えた。大きなざらめがついた飴玉2個、あんこ玉、ジャムせんべい、章雄は五円玉が宝物に見えた。
 

◆先生の涙

 

 章雄たちの小学生の頃は、戦後のベビーブームのため、教室が足りなかった。
 入学したときは木造校舎であったが、鉄筋の校舎へと建て替えが進められていた。
 校庭には鉄線の囲いが張られていた。その中には建築資材が積まれていた。鉄線は子供たちが中に入ってけがをしないよう保護のためだろう。

 章雄たちは建築途中の校舎の壁にボールをぶつけ遊んでいた。何かの拍子で
ボールが工事中の校舎のつなぎ部分、幅80センチぐらいのところに乗って落ちてこなかった。

 章雄は皆に勇気があるところを見せようと、屋上の金網を乗り越えボールを蟹足で取りにいった、三階建ての校舎から下を見ると怖かった。

 ボールを取り、金網を乗り越え、屋上に戻り「ほっ」とした。その、瞬間
塔屋に隠れ、目に涙をいっぱいためた、担任の重富先生が立っていた.

 金網を乗り越えるとき、驚かしてはいけないとおもい隠れていた。
 先生は、怒るより先に無事戻った、章雄の姿を見、安心したのであろう。
 その後、真剣に怒り、心配してくれた、重富先生の涙を生涯忘れない。
 忘れることはできない。
 その鉄筋の校舎も建て替えられた、ちょうど塔屋があったあたりの下は現在体育館になっている。
 今日、「平成20年11月22日」学習発表会≪学芸会≫が開催されている。1年生の「遠足にいくんだ」の劇を見、仕事場に戻り、この文を書いている。
 帰り際、副校長からレジメをいただいた。

1.はじめのことば・・・・・・・・・・・1年生
2.合     唱・・・・・・・・・・・全員
3.「遠足に行くんだ」・・・・・・・・・1年生
4.「少年少女冒険隊」・・・・・・・・・4年生
5.「11ぴきのねこ」・・・・・・・・・2年生
・・・・・・・・・休憩・・・・・・・・・
6.校長先生の話
7.「イソップ・いそっぷ・モノガタリ」・5年生
8.「三年坂~たろ天・じろ天」・・・・・3年生
9.「同窓会ごっこ」・・・・・・・・・・6年生
10 おわりのことば・・・・・・・・・・6年

 

◆ラジオ放送

 

 南綾瀬小学校の木造の体育館に千人以上の全校生徒が集まった。NHKラジオの収録のためであった。

 当時、少女雑誌の表紙をたびたび飾る、今でいうアイドルの子も来た。
 内容はほとんど忘れてしまったが、自分が全体のどのあたりに座っていたのかは覚えている。

 緊張感とワクワク感の入り混じった気持であった。
 収録の最中に、自分のイスを動かしたときに、音を出してしまった。「しまった、」という思いとともに、その音が全国に流れればいいなと思った。
 
 章雄は最近、近くの小学校のイベントに声がかかる。
 菖蒲まつりのとき地元の幼稚園、小学校、中学校の生徒たちがパレードや演奏会に参加してくれている。
 菖蒲まつりのサブのカメラマンとして行事に参加しているため、自然と校長先生たちと交流することになる。そんなことから、声がかかるのである。
  10月の28日、堀切小学校にmo-mo-体験として牧場が一日だけ引っ越ししてきた、牛は三匹であったが、従業員は相当の人数が来ていた。
 章雄が50年前のラジオの体験を覚えているように、小学生たちにとっては牛との触れ合いは終生忘れることはないであろう。

 

◆里見公園

 

 昭和34,5年ごろ、堀切菖蒲園の駅から柴又の駅まで、近所の小学生10人くらいで、電車で行った。

 柴又の駅に着くと、そのうちの一人が渡し船に乗って、里見公園に冒険しに行こうといった。

 その当時里見公園には、戦争のために掘られた防空壕があった。そこに冒険に行くのである。

 最初の難関は里見公園には階段を上っていくのではなく、山の斜面を登っていくのである。後ろは江戸川が流れていて、振り返ると怖かった。今でも、思い出すだけでも怖い、皆が登っていくのに、自分だけが登らないわけにはいかなかった。

 里見公園で遊び、帰りも渡し船に乗った。そして、柴又の駅で切符を買うとき、渡し船に乗ってしまったため、帰りの電車賃を持っていない子が何人か出てしまった。

 皆でポケットから、全部お金を出して集めても、3,4人分、切符を買うお金が足りなかった。

 子供たちの知恵で、年齢に関係なく、体の大きな子が、体の小さな子をおんぶして改札口を通ろうとした。改札の駅員からとがめられた。
 その駅員は、自分のポケットマネーで切符を買ってくれた。
 当時、寅さんの映画は始まっていなかったが、柴又駅に寅さんがいたのである。
 
◆泥鰌
 

 章雄が小学生のころは近所の川に泥鰌がいた。魚取りに行って、フナやくちぼそを家に持ってきてもすぐ死んでしまう。しかし、泥鰌はなかなか死ななかった。
 泥鰌に存在はすぐわかる、なぜなら、泥鰌は水面を抜けて勢いよく飛び上がるからだ。どんな小さな泥鰌でも元気がよかった。
 あのときの泥鰌の子孫は今どこのいるのだろうか。
  


◆粘土

 

 自宅の前の道路に、粘土のおじさんが来る。広い道ではない。今思うと長い時間その道で粘土細工の店を広げられるということは、いかに車の通行が少なかったかの証明になる。
 大きな型、小さな型などに粘土を詰めて取り出し、乾かして色を付けて、そのおじさんに出来具合を見てもらうのである。金賞、銀賞、銅賞・・・・・と。
 大きな型は値段が高い。私は自分の型を持っていなかったので、粘土作品を見ているだけであった。
 その粘土細工に興味を持ちはじめたころ、近所の田んぼに家を建てるため土がトラックで運ばれてきた。
 なんと、その土は赤土であり、ところどころに粘土質のカタマリガあるのである。私たち近所の子はそのカタマリが宝物に見えた。そしてトラックがいなくなるのを物陰から見ていた。
トラックが去った後、粘土を探しに埋立地に入っていった。
 

◆身近な土

 

 子供のころ、土は身近にあった。私が初めて道路舗装工事を目にしたのは、現在の私の店の前の舗装工事である。今から45年以上前のことだ。
 子供の目には戦車みたいなローラー車が砂ボコリをあげて道路を平らしていたのを思い出す。
 自宅の近所の道もほとんどが土の道路であった。雨の日、自転車が地面にタイヤが足を取られながら乗った。
 夏の日雨が降った後、地面が乾きタイヤの轍が乾いてふしくれだっいた。
 近所には長屋が多く、長屋には共同の水道が1本建っていた。水道には蛇口はなく、それぞれの長屋の住人が合鍵を持っていた。
 さらに長屋には共同の植木場があるところが多かった。それも、土を盛って、周りには板を巻いた簡単なものだった。
 近所の池は、ちょと雨が続くと道路には水が溢れ、どこからが池で、道路かわからなくなった。
 ビー玉遊びをするので、長屋の植木場の前で土を掘った、少し掘っていったら、土がジュクジュクしてきた。さらに50センチくらい掘ると水が出てきた。
そう、私が住んでいる町の地名は堀切。水が出てもおかしくない地名である。
 私が通学した双葉中学校の東側に道路をはさんで川が流れていた、双葉中学の塀は生垣であった。雨が続くと、ここも道路が見えなくなった。
 双葉中学も今年創立60周年を迎える。双葉中学の近所に図書館がある、図書館の目の前に木の橋がかかっていた、その川で見たメダカの学校をなつかしく思い出す。
 

◆バクダン菓子

 

 子供の時、強く印象に残っているものにバクダン菓子がある。
 自転車のうしろにリヤカーをつけ、その荷台に大砲の砲筒を乗せ
爆発させるのである。
 私の目には、本物の大砲に見え、こわかった。その砲筒に
はタイマーが付いていた。
 爆発時間が近ずくと、私は一番遠くに逃げた。「バボ-ン」
大音響と煙が立ち込めた。その煙の元に、籠いっぱいの爆弾
菓子が誕生した。
 この砲筒は、戦後不要になった、大砲を改造して圧力釜に
した。そうです。
 原料は、各自がお米を持参するのである。私は家からお米
を持っていけなかった。当時の主食はすいとんだった。
 近所のおばさんが持っていったお米が、今でいうポップコ
ーンになり、持って帰るのをながめるだけだった。
 その、おばさんが「アボー」と私の名を呼び、私は片手を
出した。少し、乗せてくれた。

 

◆雄太とオルゴール 

 同級生に雄太がいた。雄太の家は平屋で屋根が高く洋館のようであった。私の家
から直線距離で50mと離れていない。
   雄太の家の前には川が流れていて、橋が架かっていた、橋の名は緑橋と呼ばれ
ていた。
川は現在の暗渠ではなく、コンクリートで囲まれる前で道幅が狭かった。農作業のリ
ヤカーが通るのがやっとだったと思う。
  雄太の家は門があった「ゆうちゃん遊ぼ」 と入口で大きな声を出した。雄太は顔も
出さずに、「章雄ちゃん後で」と返事が返ってきた。後でということは、後で遊ぶというこ
とではなく、今日は遊ばないという意思表示になっていた。
  北側の狭い道路を挟んで雄太の隣の家は農家だった。大きな庭があり、その庭の
中に井戸があった。そこの庭に雄太とよく遊びに行った。その井戸はポンプ式でなく、
木桶を紐で吊るし汲み上げて石、砂、シュロで漉していくと記憶している。
  不思議とその家の構成配置をよく覚えている。そう、その農家の藁を積む場所があ
った、その藁置き場の上に乗り飛び跳ねて遊んだ。農家のおじさん、おばさんの顔は
今でも覚えているが怒こられたことはなかった。今、藁置き場だった処に車庫を借りて
いる。
 「ゆうちゃん遊ぼ」大きな声で呼んだ、中から返事が来た。「章雄ちゃん、おいで」雄
太は玄関脇の応接間に入れてくれた、ピアノが置いてあった。
 雄太はピアノの上に置いてあった宝石箱のようなものを見せてくれた。「章雄ちゃん
、これ知っている」ネジを巻き、蓋を開けるとメロデイを奏でた、その仕組みを見せて
くれた。円筒形のドラムに長短の針の不思議さ、44,5年前のことだがエリーゼのた
めにの曲だったと思う。

 

◆よいとまけ

 

 章雄の実家の前は今、空地である。今年の夏に解体された。
 元は章雄の家だった。
 しかし、章雄が小学校に入学する前に競売で人の手に渡っ
てしまった。
 実家は今だけ日当りも良く、風とおしも良い。そこは注文
建築の家を建てる予定でお客さんを探している。
 章雄はその場所で2軒の家を覚えている。一軒目は、章雄の
2、3歳の頃の記憶だと思う。父の母が同居していて、ベット
のあった場所だけ覚えていて、後はあまり記憶に無い。
 二軒目の家を、家ごと移動させていた状況を思い出しながら
書いている。まだ小学校には入学していなかったと思う。
 移動させていたのは、おじさんとおばさんたちだった。意外と
若かったのかもしれないが、おじさんの服装は覚えていないが、
おばさんたちはもんぺ姿に頭に手ぬぐいを被っていたと思う。
 土台をはずし、丸太を挿入し移動していた。
 よいとまけの歌を歌いながら、家は少しずつ動いた。
 幼少の頃の強烈な印象の一こまである。
 今でも、その歌声が耳に残っている。

 

◆大雨とどぶ川
 
 近所に日本蕎麦屋さんがあった。
 蕎麦屋さんの店主は大雨がふると四手網を持って近所のどぶ川に行く。
 大雨の中、頑丈な合羽と丸いつばのある帽子をかぶり、橋の上で四手網を仕掛ける。

 翌日蕎麦屋さんに行くと木の樽が置いてある。
 中をのぞくと、そこには泥鰌や鮒が沢山いた。
 不思議なもので、雨の時だけ普段は網にかからない大きなふなが採れるのだろう。

 店主はそれを調理して店のメニューに入れていたみたいだ。
 その店主は必ずといっていいほど雨の日に同じ場所に網を仕掛ける。そこは登校のとき通る道であっ た。
 現在、その橋の南側にあった畑に大き家が建っている。
 庭には大きな桜が植えてあり、春になると爛漫と咲く。
 昔あった川面の上に翼を広げるように。
 目をとじると元気な泥鰌が川で飛び跳ねている。

 

◆デンボチャンの兄

 

 デンボチャンのお兄さんは、皆が、シスターボーイ、シスターボーイと陰口をたたいていた。
言葉使いはなよなよしていたが、近所の子供たちのリーダー的存在だった
 そのシスターボーイを先頭にして20人前後の子供たちを、いろんな場所に遊びに連れて
行ってくれた。

 小菅の土手に連れていってもらったとき、不思議なもので、断片的であるが、写真の一こま
のように、今でも覚えている。

 草むらの中、土手を登っていく時の草の匂い、土手の上から見る荒川の河川敷は子供の目にはあまりにも広大だった。

 シスターボーイのお兄さんがれんげ草で花の首飾りの作り方を教えてくれた。去年平成16年の初秋に足立の舎人公園に行ったとき、二人の中学生の男の子と友達になった。

 夏の暑い盛りは過ぎていたのでれんげ草の花は少なかった。首飾りとまではいかなかったが腕飾りぐらいの大きさを二つ作ってあげた。
 そのとき。お母さんに、こう言ってあげるのだよと教えた。「お母さん、いつも美味しい食事を
作ってくれて有難う、感謝の気持ちを込めて作りましたと」。
 私は付け加えた。「もしかしたら、お小遣いをよぶんにくれるかもと」。

 

◆キャッチボール

 

 近所に章雄より三歳年上のデンボチャンがいた、デンボチャンの苗字は覚えているが名前
は忘れた。デンボチャンと章雄との関係はピッチャーとキャッチャーの関係だ。
 デンボチャンは近所の野球チームに入っていた。章雄は野球のグローブは買ってもらえな
かったため持ってない。デンボチャンのキャッチャーミットをいつも借りていた。

 今でも、その道はあまり車が通らないが当時はもっと通らなかった。おもてでアボー、アボー
とデンボチャンの呼ぶ声が聞こえた。いつものようにキャッチャーミットを渡された
 最初の頃はデンボチャンの早い球が恐くてなかなかうまく捕れなかった。
 少しづつだが捕球術も上達してきた。早い球をミットで上手に受けるとポーンと良い音がする
のである。デンボチャンはその音が大好きだった。より良い音がするようにミットを常に改良
していたみたいだ。

 デンボチャンに野球の練習や試合に行くのをよく誘われた。選手として誘われたのではな
かった。当時小菅の河川敷は役所に予約するのではなく。先にネットを張ったチームがそこ
を占有できたのである。

 章雄の仕事はネット運びと球拾いであった。堀切の数少ない大企業のひとつであるミヨシ
油脂の横を通りネットを運ぶのである。今は臭わないが、その当時はすごい匂いがした鼻が
壊れるかと思った。ネットを肩で担ぎよく通った。

 デンボチャンは章雄が高校生の頃引っ越してしまい、その後の消息はわからない。会いた
いな、デンボチャン。

 

◆ 上 野

 

 上野に95円均一のデパートがあった。近所に少し年上の男の子がいた、その子とは集団では缶けり等で遊ぶが二人で遊んだとか、どっかに行ったという記憶はこの時だけである。

 由紀夫くんから「アボー上野に行くからついて来いと」言われた、行き先はデパートである。
 お金など私は交通費以外は持っていない。95円均一の階をグルグル由紀夫君と商品を見ながら回っていた。ほしいものが沢山有った。もともとお金は無いので見てるだけであった。
それだけでも楽しかった。

 ハンドバックを持った女性が私達に近づいてきた。そして、ぼくたち、ちょっと私に付いて来て。

エレベーターに乗せられデパートの事務所に連れて行かれた。章雄は連れて行かれる意味がわからなかった。

 その事務所で女性から盗んだものを出しなさいと言われた章雄はキョトンとした。由紀夫君のポケットから商品が出てきた。
 そのことを通して二つのことを今思う、一つはそのデパートは学校に連絡しないでくれたこと。

 もう一つは何故盗みがばれたのかということ。今まではあまり考えたことは無かったが由紀夫君も章雄も身なりがみすぼらしかっただろうから、最初から盗むとおもわれたと思う.

 さて現在はどうであろうか、新聞等によると子供達がお金は持っているのにゲーム感覚で友達に勇気を誇るために盗みをするニュースを見るたび心が痛む。

 

◆集団生活の章雄

 

 章雄の家の隣にはバアチャン、ヒイバアチャンがいた。大家族であった。章雄は母を
おかあちゃん、祖母をかあちゃん、祖祖母をばあちゃんと呼んでいた。祖祖母は九十三
歳で亡くなったが、祖母は八十九で亡くなるまでかあちゃんと呼んでいた。
 祖父は静かだが威厳があった。軍服にに包まれて、白い馬に乗った写真が居間に飾
られていた。

 胃癌を宣告され三ヶ月の命と、だが、そのときより七年後、癌ではなく、脳溢血で眠るよ
うな穏やかな顔で七十七歳で亡くなった。
  祖父の家は借地であるが結構土地が広かった。その広い土地に母の妹夫婦も住ん
でいた子供も男の子二人が居た、その旦那の母も同居していた。関西出身であり、章
雄も自然に関西弁を覚えた。
 母の妹の旦那はガラスやであった。自転車の横にガラスを積んであちこちに修理に
歩いていた。
章雄は父に遊びに連れていってもらった記憶がないが、このおじさんは釣りが好きでい
ろんなとこに連れていってもらった。

 さらに、結婚前の母の弟や妹も別棟に住んでいた。別棟とはカッコイイが実際は建て
増しした長屋形式である。


  章雄の仕事はご飯炊き

 その頃の章雄の仕事は、ご飯炊きだった。土間に置かれた竈に薪をくべるのである。
火かげんにはコツがあった。子供ながらバアチャンに炊き方の訓練を受けていた。消し
壷に入れる消し炭を取り忘れてバアチャンからよく怒られた。

 バアチャンの得意なことは竈で炊いたご飯はお焦げができる。そのお焦げを一口で食
べられる大きさにして、醤油でまぶし、天日干にしてせんべいを作ってくれた。
 子供の口には少し大きく、硬かったが、お菓子など買ってもらえない時代であり、バア
チャンの真心がしみて美味しかった。

 竈のある土間で、お正月が近づくと母は長女であり弟が三人いた。まだ20代、30代
の働き盛りである。交互に餅をつく、妹たちがこねる。章雄が一人でご飯を炊くのとは
違い土間は活気づいていた。

  バアチャンがつきたてのやわらかい餅に納豆、黄な粉、あんこをまぶし食べさせてく
れた。湯気をあげている餅はおいしかった。

  章雄たちの部屋は六畳一間であった。そこに家族七人が住んでいた。部屋には窓が
なく、倉庫といった感じだ。雨が降ると大変でバケツ、ナベ、洗面器等がところ狭しと置
かれ、いろいろな音色を奏でた。親の気持ちはともかくとして、子供心として楽しかった。
 章雄は植物を育てるのが好きで、小学校の園芸部に入部していた。しかし自宅には植
える場所がなかった。
一日のうち一時間くらしか日の当たらないガラクタ置き場の上に畳半分くらいのベニア板
を敷き、土を乗せて種を植えた、芽が出たが育たなかった。日当たりが悪すぎた。

 章雄達の住んでいる部屋には二階はあった。二階は老朽化が激しく、とても住める状
況ではなかった。
更に、その昔、祖父はその二階部分を大家として間貸ししていた。
 章雄はその二階のベランダでジャガイモを植えた、葉が繁り水をあげるのが楽しかっ
たが、ジャガイモは収穫できなかった。


◆ずる休みと白鷺

 

 章雄の家を出て北へ5,6分歩くと、もうそこは田園地帯であった、冬の日、ランドセ
ルを背負って学校に行くふりをする、ふりをするということはずる休みである、休む日
は決まっていた、給食費を学校に持っていく日に休む。
 とにかく北へ北へと歩く、どこからか聞こえてくる正午のチァイムを目安にして、自宅
に戻る、姉と、弟も同じく給食費を持っていけなかったが学校に行っていた。章雄は行
けなかった。

 章雄は田んぼ道を好んで歩いた。当時は白鷺が沢山いた。白鷺と章雄との距離は一
定していた。
白鷺に向かって歩いていっても、ある一定の距離までは白鷺は逃げない。近づいて行く
と白鷺は逃げる、逃げるといっても見えるとこに逃げる、又近づいていく、逃げる、その
繰り返しであった。

 章雄の学校の成績はすこぶる悪かった、当時の成績の評価は5段階であった、小学
校時代、4、5は一科目もなかった。それどころか、3でさえ体育以外には記憶がない。
 特に嫌いな科目は国語であった、何故ならば、席順に音読していくのである。章雄は
極度のドモリだった、自分の番が近づくと心臓が口から飛び出すように緊張する。
 自分の番で読むために席を立つが言葉が出ない、あー、あー、あーというだけである、
先生は「章雄君いいよ」と言うが、最初から読まさせなければいいのにと思ったが、先生
からすれば、読まさせるのも、席を飛ばすのもどっちも苦労したのだろう。私の子供の頃
のあだ名はアーボーである。

 今日は給食費の支払日、いつものとおりランドセルを背負って章雄は家を出たが、学
校には足が向かなかった。雨が降っていた。
 章雄は行くあてもなく、ひたすら北へと歩いた、お腹がすいてきた。すると大きな農家が
あった。
その門の脇に牛乳箱があった。その木で出来た箱のふたを開けると二本の牛乳壜が
入っていた。一本盗んだ。

 章雄はキョロキョロとまわりを見渡し、傘の中に入れた。急に心臓がドキドキしてきた
 雨は降っていたが、傘をたたんで牛乳壜を隠した。体はずぶ濡れである。盗んだこと
が恐くて恐くて傘をさせなかった。人の目が恐くカバンに隠す余裕もなかった。
 一時間は歩いただろうか、自分よりも背の高い草むらで章雄は泣きじゃくりながら牛
乳を飲んだ。そのときの恐怖感と悲しさ、やるせなさから章雄はその後、盗みをしたこ
とがない。